養育費が払われないシングルマザー日記

養育費を払ってもらえないシングルマザーの子育て、仕事、離婚体験などの日記

母子家庭の寂しさ。でも今は…

我が家は母子家庭でした。
お母さんが、私と弟を育ててくれました。
小さい頃は、お母さんが働いていて、やっぱり寂しい思いはしました。シングルマザーの仕事は遅く、弟は、お母さんを待っていると言ったけど最終的に寂しいし眠いしで泣いてしまい、そのまま寝てしまったり。子守りに来てくれているおばあちゃんも早く寝てしまうし、私はなんとなく起きているんだけど、一人起きていて心細くて寂しかったのを覚えています。
小学校にはいってからももちろん鍵っ子だったので、かならず留守番。
家にお母さんが待っていてくれる家が羨ましかったです(いじわるな子は、家でお母さんが待っていておやつを出してくれることを自慢してきたりするし…)。
お母さんが残業になっても遅いときは、弟とお弁当を食べながら留守番をしていました。そのときのせいか、あまりコンビニ弁当が好きではないです。お母さんに残業をさせる職場が憎たらしいので、町でお母さんの職場の人に会っても「嫌なやつ」とか思っていました。
でも、大人になってみると、いま自分がお母さんのように女一人で子供二人を育てられるかと考えれば、その大変さは本当に分かります。私にはできない、とも…。
お父さんが早くに亡くなって、お母さんも寂しいし悲しかっただろうに、頑張って働いて、大学まで出してくれました。
もちろんケンカをしたり、お互い腹をたてたりすることはありますが、お母さんには恩返ししてもしきれないなと思っています(ろくなことできていませんが…)。
できれば早く、孫の顔をみせてあげたい、と思いつつ、なかなか結婚もままならない状況ですが…。
私や弟が家をでて、今はお母さんが寂しがっているので、私はできるだけ寂しい思いをさせないよう、家に顔を出したり、連絡をしたりしていきたいと思っています。

母子家庭で私の決められた道


私の家は私が小学校5年生の時に親が離婚をし、母子家庭になりました。

名字は、当時私の3つ下の弟が「学校でいじめられるかもしれないからやだ」と言い変えずに今の今まで過ごしています。

母が新しい彼氏を作ったり別れたりとしていたので同じ市内で何回も引っ越しをしました。

その為、近所に仲の良い友達ができなかったので幼なじみがとても羨ましかったです。

母は、私たち二人兄弟を養う為に仕事を掛け持ちをし朝から夜中の3時くらいまで働いてました。

小学生高学年の私は、夜母と一緒に寝れない事がとても寂しく泣きながら寝たこともありました。

ですが、私たちの為に頑張って働いている事を知っていたので寂しい事は言わず我慢をしていました。

母の匂いのするパジャマを抱いて寝たこともありました。

中学3年生になって受験の時、進路をどうしようかとっても悩みました。

普通科の学校に通って、大学に行って楽しい学校LIFEを送りたいなんて思ってました。

ですが、私の家は母子家庭だし私には弟がいます。

男の子は、ちゃんとしたところに就職をした方がいいと思ったし高校卒業して大学か専門学校に行った方がいいと思いました。

二人も大学か専門学校に通わせるのは大変だなと中学生ながらに考えた私は、高校卒業後に就職率が一番高い7学科もある専門学校に行くことを決めました。

その中で、就職に一番有利だと思った商業科に志願し見事受かりました。

最初は家計の為に、就職率の高い学校と選びましたが自分にとって一番合っている道だなと思いました。

高校卒業後に第一志望だった会社にも就職ができ、良い社会勉強ができてると思います。

これからは、一番苦労掛けた母に孝行をしっかししていきたいと思います。

長男が学校に通えるようになるまで

生後すぐに、重度のアトピー性皮膚炎と診断され、色々な葛藤、病気への不安、辛さ等々本人なりに、乗り越えてきた長男。

それでも心の闇だけは、深く、大きく周りが気が付かない程の大きさになっていたようでした。

その大きな闇に、立ち向かってかなければならない長男の心の闇は、想像以上にきつく、本人もかなり寂しかったと思います。

小学校五年生の時に、出会った医師によって長男が少しずつ、少しずつ変化していくのが、わかりました。

長男とともに、都内の病院に通うようになり、初めの頃はこれから先の不安ばかりでした。

同時に不安なのは、私ではなくて長男本人なんだ。と、割り切れるようになるまで、少々時間がかかりました。

ただ私が割り切る事で、少しずつ長男にも変化がみられるようになってきた事も事実でした。

やはり親子二人三脚でやってきた為、そのたびの困難は一緒に乗り越えてきました。今回もそのようになる事が出来るかが、私にも不安でした。

長男と二人三脚で、病気と向かい合うようになり、私も少しずつ楽しむようにしました。

病院に行くにも、一緒に楽しめる事を見つけ、食べる楽しみ、ウィンドウショッピングの楽しみ、等を心掛けてみました。その事で色々な長男の姿が見えてきました。

私にとっても、年頃の難しい子どもと向き合うよい時間だったと思います。なかなか母子家庭という事もあり、ゆっくりと向き合う時間が足りなかったのかな?と、反省する事も多い日々でした。

苦労もたくさんしましたが、この子の親権をとって私は本当に良かったと思っています。ただ公開はしっかりと養育費の取り決めをしなかったことです。

これから離婚をお考えで、お子さんの親権を取得する方は、養育費の取り決めはしっかり公正証書に残しておきましょう。

なぜなら、養育費は子どものためのお金だからです。

あなたが子どものために確保してあげて下さい。

分譲賃しのマンションに住んだ時のお話。

私たち家族は母、私、妹の女3人家族なのですが、私が5歳の時から私が高校2年生になるまでの約12年の間とても古くて狭い風呂なしの2DKのマンションに住んでいました。

とても愛着のある家だったのですが、なんせ狭いし古いしお風呂はないし湯沸かし器すらついていなかったので冬は冷水で凍えながら洗い物をするような毎日でした。

そんな暮らしを送っていた私たちに「このマンションを壊して新しい家に建て替えるので、立ち退いてほしい。」と大家さんから立ち退きの話が舞い込んで来たのです。

10年以上住んだ家、この家とともに育ったと言っても過言ではないそんな思い出が沢山詰まったお部屋、最初はとても悲しかったのですが立ち退くまでになんせ期間がなかったものですから感傷に浸る暇もなく不動産屋に通う日々が始まりました。

そして巡り会えたのがその後私たちが住む事になる分譲マンションを賃貸で貸し出している分譲貸しのお部屋でした。

当時高校生だった私は当然そんなシステムがある事も知らなかったのであまりピンとこなかったのですが、実際に内覧に行くと今までのあの家はなんだったんだ!という程の広さと綺麗さでした!

間取りは3LDKのリビングに洋室2つ和室1つの全室リノベーション済みのお部屋でした。

クロスは真っ白で部屋がとても明るく、あまりの綺麗さに家族みんなで思わず「わー!綺麗ー!」と声をあげてしまったのを覚えています。

家賃は分譲貸しということもあり、当初は9万円と決して安いとは言えない価格だったのですが、不動産屋の担当の方がとても頑張ってくださり8万円で借りる事が出来ました。

それからはもう毎日がワクワクの連続でした。

まず自分の部屋がある!私は図々しくも一番広い10畳のお部屋を自分の部屋にする事に決めました(笑)

この部屋は一番日当たりがよく冬でもポカポカしていてとても気持ちの良いお部屋でした。そして一番嬉しかったのがお風呂がある!

これは普通の方からすれば当たり前のことなのですが、真冬の時期でも凍えながら銭湯通いをしていた私たちからすればもう涙が出るほど嬉しかったです。

水周りも全てリノベーションされていましたのでとても気持ちよく、本当にそれからは家に帰るのが楽しみで仕方のない毎日を送る事ができました。

今は私たち姉妹が結婚を機にこの家を巣立ってしまったので母が一人で住むのには勿体無いという事で泣く泣く引っ越ししてしまったのですが、楽しく幸せな思い出がたくさん詰まったあのお部屋を思い出しては心が温まる日々です。